ミリタリー・カルチャー研究会
科研・基盤研究(B)「現代日本の戦争観・平和観とその歴史・文化的背景に関する社会学的研究」
2018年度の研究実績概要 (科研・基盤研究(A))
青森県での現地調査
8月 20 2019
「戦友会データベース」は、2019年8月20日、旧「戦友会研究会」サイトから、この「ミリタリー・カルチャー研究会」サイト内に移転しました。 ひきつづきご利用のほど、どうぞよろしくお願いいたします。
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戦友会データベースベースに記載されている団体は現在も活動はしているという事なのでしょうか? 祖父のいた部隊が歩兵第34連隊なのですが、データベースで調べてみたら5つの団体が出て来ました。 私の探している戦友会と一度コンタクトを取りたいと思っています。
コメントありがとうございます。 戦友会データベースは、「このデータベースについて」に記載の通り、2001〜2005年の調査に基づくものですので、現在はほとんどの戦友会が活動停止ないし解散しているものと推定されます。
ご親族の軍歴や戦友会についてお調べになりたい場合は、「戦友会や軍歴の調べ方」をご参照ください。
こんにちわ失礼します私岩田正彦と申します叔父の遺留品写真などなんでもいいので捜していますしかし国のほうはじといい遺族に送り済みとしか言わず見込みをさがして三年何かいい方法はありませんでしょううか・・いきなりすみません 復員会はみつけたんですがなくなり困りはてていますどうかお知恵拝借ねがえませんか
岩田正彦様 コメントありがとうございました。 ご親族の軍歴等の調べ方については、私どもも「戦友会や軍歴の調べ方」ページに記載している以上の情報は、残念ながら提供できません。ご了解のほど、どうぞよろしくお願いいたします。
伊藤吉兵衛の戦友、遺族方何でもいいので、情報ください。伊藤吉兵衛は、私の祖父で、満州に出戦していました。当時、祖父が、住んで居たのは山形県置賜郡玉庭です。終戦前に片腕の右手を無くし、相模原の病院に居たようです。 少しでも、いいので情報がありましたら教えてください。よろしくお願い致します。
イトウタカシ様 コメントありがとうございました。返信が遅くなり失礼いたしました。 ご親族の軍歴等の調べ方については、私どもも「戦友会や軍歴の調べ方」ページに記載している以上の情報は、残念ながら提供できません。ご了解のほど、どうぞよろしくお願いいたします。
ミャンマー(ビルマ)からです。ミャンマーのカヤー州という所で戦死したと思われる、山下哲夫中佐という方のご遺族の方々と連絡を取りたいですが、どういうふうに探せればいいのでしょうか?
テイ・アウン・モウ様 コメントありがとうございました。ご親族以外の軍歴等については、「戦友会や軍歴の調べ方」ページの後半の「部隊史や戦友会史・誌について」をご参考にしてください。それ以上の情報は、残念ながら提供できません。ご了解のほど、どうぞよろしくお願いいたします。
戦友会の『薫風会』(所在地:東京都、部隊名:歩兵32師団第1野戦病院、通称名:楓4263の方に連絡を取りたいのですが、どうしたらいいのでしょうか?
コメントありがとうございました。 「このデータベースについて」に記載の通り、戦友会代表者の連絡先等の情報は、残念ながら提供できません。
なお、このデータベースの大部分の基礎情報となりました、 元軍人軍属短期在職者協力協会『「戦友会」調査報告書』は、昭和館で閲覧できます。 詳細は、昭和館の図書検索ページからご確認ください。 https://www.showakan.go.jp/search/books/
ただ、上記の調査は1990年代後半に行われたものであり、それに基づく私どもの調査も、 2005年に行ったものです。それから15年が経過しておりますので、現在では、 ほとんどの戦友会関係者が亡くなられているものと推定されます。 ご了解のほど、どうぞよろしくお願いいたします。
データベース中の「野砲26会」が「大阪市 野砲兵第23連隊 朝2059」となっていますが、野砲兵第26連隊の誤りではないでしょうか 参考url 慰霊碑がある大阪護国神社のwebページ http://www.osakagokoku.or.jp/publics/index/84/
高田幸雄様
ご指摘ありがとうございました。 元データの単純ミスと思われますので、当該データを「野砲兵第26連隊」に修正しておきました。
別件ですが、「日中戦争 野砲兵の日記」は貴重な内容ですね。ご尽力に敬意を表します。
また何かご縁がありましたら、どうぞよろしくお願いいたします。
初めてコメント致します。私は横浜市在住の岡田順一と申します。父親はビルマで船舶工兵隊に所属して4年半を戦いました。 この度の問い合わせの目的は父の戦友が埋葬されていそうな岡山県のパコダを探してできれば戦友が眠るパコダに一緒に納骨したいと思っています。 私の父が生前に「俺が亡くなったら岡山県に戦友達が入っているパコダがあるから分骨して入れてくれ」と私と約束をかわしました。亡くなってから父親の軍歴が下記のように解りました。読めない文字もありますが、何方か父親の戦友が埋葬されていそうなパコダの心当たりがないでしょうか。教えて頂ければと願っています。生前に父が「俺の名前も岡山県のそのパコダに赤い文字で書かれてある」と言っていたのです。どうか宜しくお願いします。 下記に父親の軍歴 ・昭和18年1月6日臨時召集により工兵第6聯隊(連隊)補充隊第一中隊に應召(おうしょう)入隊(船舶工兵第?一聯隊(連隊)要員) ・1月?5日船舶工兵隊第?一聯隊(連隊)に轉属(転属) ・?月?日屯営出発 ・同月26日門司出発 ・同月31日高雄上陸 ・同日第一中隊編入 ・昭和18年2月6日船作命甲第6號(号)により南方軍総司令官の指揮下に編入 ・同月23日高雄港出発 ・同月28日昭南(シンガポール)港上陸 ・3月6日昭南(シンガポール)港出発 ・同月17日緬旬(ビルマ)蘭貢(ラングーン)港上陸 ・自3月18日至5月10日第31 號(号)作戦に参加 ・自5月11日至6月4日「タウニガップ」(タウンジー又はタウングー)附近の防衛?に輸送作業に従事 ・6月5日より8月14日迄緬旬(ビルマ)防衛?次期作戦準備に従事 ・8月15日より9月10日迄第二次緬旬(ビルマ)防衛に従事 ・9月11日より昭和19年7月10日迄「ウ」号作戦に参加 ・7月11日より10月28日迄 盤作戦(前?期)に参加 ・10月29日より昭和20年1月20日迄 完作戦?に盤決戦に参加 ・1月21日より4月12日迄「イラワヂ」河畔会戦?に「メークテラ」附近会戦に参加 ・4月13日より6月17日迄「克」作戦に参加 ・6月17日原所属復帰 ・6月1日命上等兵(?) ・6月17日より8月14日迄「モールメン」水域船舶作戦に参加 ・9月7日「トクー」第118兵?病院に入院(戦病) ・9月9日「ウエガレー」第106兵?病院に於て癒 ・9月29日「トクー」第118兵?病院に於て退院 ・9月30日原隊復帰 ・昭和22年6月23日宇品港(広島?)上陸同月24日復員 以上が父の軍歴です。 宜しくお願い致します。
岡田順一様
戦友会データベースについてのお問い合わせをいただき、ありがとうございました。 返信が遅くなり、失礼いたしました。
お父様がビルマで船舶工兵隊に所属されていたということは、 所属部隊は船舶工兵第11連隊、戦友会は「暁士会」と思われます。
この暁士会の戦友会誌や部隊史があれば手掛かりがつかめるかもしれませんが、 下記ページに記載の資料館等のどこにも、残念ながら暁士会関係の資料は 所蔵されていないようです。 https://www.military-culture.jp/inquiry/
また、インターネットで「船舶工兵第11連隊」や「暁士会」で検索しても、 それらしい情報は見つかりませんでした。
以上のことから、お役に立てなくて恐縮ですが、これ以上の調査は困難と思われます。 ご了解のほど、どうぞよろしくお願いいたします。
吉田純 様 先日、父岡田春好の件でお世話になりました息子の順一です。お忙しい中を調査頂き有難う御座いました。 今はコロナで動きが取れませがコロナが終息しましたら頂いた資料も参考にして私なりに探してみたいと思います。 大変御足労頂き感謝しています。 コロナは長く続くようです。くれぐれも気を付けてご自愛ください。
突然のメール失礼いたします。私の祖父も岡田様のお父さまと同じくモールメン水域船舶作戦に参加しており、昭和22年6/23日に宇品(広島)上陸6/24復員となっておりました。 お父さまも恐らく船舶工兵11連隊所属だと思われます。
リプライありがとうございました。
(メールではすでにお送りしましたが) 1点補足です。 奈良県立図書情報館には、『我らは船舶工兵第十一聯隊 : 戦友の資料とビルマ・台湾の慰霊巡拝紀行文』 という資料が所蔵されています。 https://opacsvr01.library.pref.nara.jp/opac/volume/285496?current=2&q=%E8%88%B9%E8%88%B6%E5%B7%A5%E5%85%B5&total=19&trans_url=%2Fopac%2Fsearch%3Fcount%3D50%26defaultpage%3D1%26defaulttarget%3Dlocal%26order%3Dyear_d%26q%3D%25E8%2588%25B9%25E8%2588%25B6%25E5%25B7%25A5%25E5%2585%25B5
もしかしたら、この資料を閲覧されれば、なんらかの手掛かりが得られるかもしれません。 ご参考になれば幸いです。
コロナ終息と調査のご進展をお祈りいたします。
初めてコメント致します。土居成年(まさとし)と申します。アドバイス頂きたく書き込ませて頂きました。
大戦中私の祖父治重がフィリピンで亡くなっていますが、私の父は祖父に関して多くを語る事なく14年前に他界しました。5年程前から祖父の足跡を明らかにし、供養してあげたい、また、それを娘や甥・姪に語り継ぎたいという気持ちに私はかられるようになりまして、少しずつですが調査しています。以下にこれまでにわかりました事の概略を記しますので、ここから先の調査の仕方に関してアドバイスを頂戴したくお願い申し上げます。
まず祖父の出身地は高知県現高知市です。大正14年1月10日徴兵により歩兵第44連隊に入隊しています。そこで軽機関銃射手として訓練を受け、昭和2年12月1日に予備役に編入されています。兵籍に記されている最後の点呼は昭和17年です。その最後の点呼から先は何も記されておりません。
しかし、戸籍によりますと、祖父治重は昭和20年7月12日にフィリピン セブ島 ツブラン川上流で亡くなった、と第一復員省から報告があった、とあります。つまり、最後の点呼を受けた昭和17年から亡くなった昭和20年までの間に祖父はフィリピンに渡った訳なのですが、軍籍にはその記載がありません、また念の為に厚労省にも問い合わせたのですが、海軍の記録にもありませんでした。
となると民間人の身分でフィリピンに渡ったという事になるのでしょうか? しかし死亡の連絡は第一復員省から…、という事はやはり陸軍.? -ここから先にはまったく進めておりません。ご多忙中恐れ入りますが、これから先の調査の仕方に関して、何かアドバイスを頂く事ができましたら幸いです。 土居
土居成年様
お問い合わせありがとうございました。多くのスパムコメントに紛れていたため、気づいてお返事するのが大変遅くなり、失礼いたしました。
おたずねの件ですが、軍歴はその後の軍人恩給の受給権に関わるため、おじい様が戦後に軍人恩給を受給していたかどうかを問わず、公的に認められた軍隊の在籍期間の記載が証明書から省略されることは考えにくいため、推測されているように、民間人として何らかの理由で外地に移動していたため、何らかの理由で現地での死亡確認が公的な記録に記載されることになった、ということかと思います。
もし軍人として帰国されたのであれば復員の記録が事後的にであれ作成されるはずなので、死亡時に軍人であった可能性は低く、第一復員省の記録、ということは陸軍関係者と何らかの形で接点があったとは考えられますが(亡くなられた現場に軍医が居合わせた、など)、昭和20年7月のフィリピンは既に陸軍としては組織的な戦闘はしていない時期にあたるはずなので、ゲリラ戦は各所で散発的に続いていたかと思いますが、陸軍と行動を共にした、とまで言える時期かどうかは何とも言えません(一般的にはおそらく軍民帯同の形が取れない戦況ではなかったかと思われます)。
そのため、探し方も部隊史や戦友会の会誌などから探せば見つかる、というものでもないと思われますので、具体的な情報である「昭和20年7月12日にフィリピン セブ島 ツブラン川上流」の状況を示す文献や関係者を探すよりほかないように思います。
なお、直接の参考になるかどうかはわかりませんが、厚労省のサイトで当時の戦地別、時期別の陸海軍それぞれの戦没者の状況を戦後に聞き取った調査記録を公開しています。 (厚生労働省「海外での戦没者の死亡状況について、帰還した元上官らから聴き取りした資料について 」https://www.mhlw.go.jp/bunya/engo/shiryou/ )
「セブ島」と言っても決して小さな島ではないので、また、軍人の戦没者の記録を探すことが調査目的にはそぐわないかもしれないのですが、当時の現地の様子を知る上では一つの記録資料ではあるので、参考の参考くらいにしかならないと思いますがお伝えしておきます。
以上、多少なりともご参考になれば幸いです。
吉田純様
土居でございます。この度はご丁寧なアドバイス頂きありがとうございました。 実は私の方も投稿させて頂いてから1カ月程はよく覗かせて頂いておりましたが、動きがないことからこのサイトのこのページは何等かの事由で活動停止中であると決めつけて、それ以降は覗くことも致しておらず、ご親切なアドバイスに対してのお礼がここまで遅れてしまいました。大変失礼致しました。
祖父治重に関しては、本当に僅かしか父から聞いておりません。勿論私は顔も見たことがないのですが、陸軍の軍籍の写しを見た時に、初めて自分の心の中で実際に存在した祖父として認識できたことを覚えております。それ故でしょうか、軍籍の最後に記されてあった予備役編入から先の足跡が無いこと、しかし戸籍には確かに~フィリピン セブ島 ツブラン川上流で死亡~と書かれてあること、これら二つの事象の間の祖父の空白期の足跡を埋め、祖父の存在を認識することが自分がすべきことである、と勘違いをしていた気も致します。そのような記録上の空白期を埋めることは、決して同島に今も眠る祖父が望むところではないのでは、と最近思うようになってまいりました。もう調査を開始してから約6年になります。足跡へのこだわりは時間とのバランスで考えようと思うようにもなりました。何等かの理由で民間人の立場でフィリピンに渡った、そして不幸にもそこで一生を終える事になったと、これから割り切ろうと思います。 最近読んだ記録によれば、アメリカ軍はセブ島の東側海岸中ほどに上陸し、日本軍は島の中ほどから北へ北へと追いやらたそうですが、その流れには民間人も交じっていたそうです。そしてその逃避方向の北方に ツブランという地名があります。あくまで可能性ですが、その流れの中に祖父がいた気がします。
重ねましてアドバイスに対して心から御礼申し上げます。 今後共宜しくお願い申し上げます。
土居
初めて投稿させて頂きます。私の父は昭和19年9月1日愛媛県壬生川市から臨時召集のため「歩兵第112連隊 補充隊」れましたに応召され同日第1中隊に編入されました。同年9月16日「丸亀出発」同17日「博多港出発」同9月25日「鮮満国境通過」歩兵第12連隊に転属で満州に向かいました。昭和20年3月10日歩兵第265連隊に編入され、昭和21年1月5日満州液河病院で戦病死しました。父は 長野 貞義 明治43年3月15日生です。 この中で9月16日「丸亀出発」同月17日「博多港出発」と履歴書にあるのですが、丸亀から博多港までどのような経路で向かったのか情報がありましたらお教え頂ければと思い投稿させて頂きました。よろしくお願いいたします。
私の祖父は愛媛出身(ですが、北京や満州と行ったり来たりの生活を送っていました)で、19歳の頃に志願して北支派遣されましたが、 当時の愛媛県内の状況を祖母(祖父の妻で同じく愛媛人)から少し耳にしたことがありますので、共有します。
東予エリアに本籍地のある人は、徴兵されると、まずは丸亀の陸軍の基地へ集められ、出征先へ送られたそうです。 (ちなみに、中予エリアに本籍地のある人は、松山に招集なんだそうです) その後は、船で博多へ向かい、博多港から中国や朝鮮へ渡ったのだと思われます。
私の祖父一家は明治〜昭和期にたびたび中国大陸へ渡っていましたが、“四国からの直行便”のような移動手段が無く、必ず四国エリアから北九州エリアへ船で渡って、乗り継ぎをしていました。
お父様の出征の時の船は、民間船よりも、軍艦の可能性が高そうですね。
子供の頃、1942年から1943年まで包頭地域に駐屯し、1944年に包頭から師団とともに河南省に来て、洛陽襲撃で亡くなった曽祖父について祖母が話すのを聞きました曽祖父の軍隊だけが呼ばれます(あ部隊)このユニットを知りたいです
お問い合わせありがとうございました。 残念ながら、お知らせいただいた情報だけでは、これ以上の軍歴の手がかりは得られそうにありません。 (すでにご覧いただいているかとは思いますが)「戦友会や軍歴に関する情報の調べ方」を改めてよくご確認いただければ幸いです。 https://www.military-culture.jp/inquiry/
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戦友会データベースベースに記載されている団体は現在も活動はしているという事なのでしょうか?
祖父のいた部隊が歩兵第34連隊なのですが、データベースで調べてみたら5つの団体が出て来ました。
私の探している戦友会と一度コンタクトを取りたいと思っています。
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コメントありがとうございます。
戦友会データベースは、「このデータベースについて」に記載の通り、2001〜2005年の調査に基づくものですので、現在はほとんどの戦友会が活動停止ないし解散しているものと推定されます。
ご親族の軍歴や戦友会についてお調べになりたい場合は、「戦友会や軍歴の調べ方」をご参照ください。
こんにちわ失礼します私岩田正彦と申します叔父の遺留品写真などなんでもいいので捜していますしかし国のほうはじといい遺族に送り済みとしか言わず見込みをさがして三年何かいい方法はありませんでしょううか・・いきなりすみません
復員会はみつけたんですがなくなり困りはてていますどうかお知恵拝借ねがえませんか
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岩田正彦様
コメントありがとうございました。
ご親族の軍歴等の調べ方については、私どもも「戦友会や軍歴の調べ方」ページに記載している以上の情報は、残念ながら提供できません。ご了解のほど、どうぞよろしくお願いいたします。
伊藤吉兵衛の戦友、遺族方何でもいいので、情報ください。伊藤吉兵衛は、私の祖父で、満州に出戦していました。当時、祖父が、住んで居たのは山形県置賜郡玉庭です。終戦前に片腕の右手を無くし、相模原の病院に居たようです。
少しでも、いいので情報がありましたら教えてください。よろしくお願い致します。
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イトウタカシ様
コメントありがとうございました。返信が遅くなり失礼いたしました。
ご親族の軍歴等の調べ方については、私どもも「戦友会や軍歴の調べ方」ページに記載している以上の情報は、残念ながら提供できません。ご了解のほど、どうぞよろしくお願いいたします。
ミャンマー(ビルマ)からです。ミャンマーのカヤー州という所で戦死したと思われる、山下哲夫中佐という方のご遺族の方々と連絡を取りたいですが、どういうふうに探せればいいのでしょうか?
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テイ・アウン・モウ様
コメントありがとうございました。ご親族以外の軍歴等については、「戦友会や軍歴の調べ方」ページの後半の「部隊史や戦友会史・誌について」をご参考にしてください。それ以上の情報は、残念ながら提供できません。ご了解のほど、どうぞよろしくお願いいたします。
戦友会の『薫風会』(所在地:東京都、部隊名:歩兵32師団第1野戦病院、通称名:楓4263の方に連絡を取りたいのですが、どうしたらいいのでしょうか?
Author
コメントありがとうございました。
「このデータベースについて」に記載の通り、戦友会代表者の連絡先等の情報は、残念ながら提供できません。
なお、このデータベースの大部分の基礎情報となりました、
元軍人軍属短期在職者協力協会『「戦友会」調査報告書』は、昭和館で閲覧できます。
詳細は、昭和館の図書検索ページからご確認ください。
https://www.showakan.go.jp/search/books/
ただ、上記の調査は1990年代後半に行われたものであり、それに基づく私どもの調査も、
2005年に行ったものです。それから15年が経過しておりますので、現在では、
ほとんどの戦友会関係者が亡くなられているものと推定されます。
ご了解のほど、どうぞよろしくお願いいたします。
データベース中の「野砲26会」が「大阪市 野砲兵第23連隊 朝2059」となっていますが、野砲兵第26連隊の誤りではないでしょうか
参考url 慰霊碑がある大阪護国神社のwebページ http://www.osakagokoku.or.jp/publics/index/84/
Author
高田幸雄様
ご指摘ありがとうございました。
元データの単純ミスと思われますので、当該データを「野砲兵第26連隊」に修正しておきました。
別件ですが、「日中戦争 野砲兵の日記」は貴重な内容ですね。ご尽力に敬意を表します。
また何かご縁がありましたら、どうぞよろしくお願いいたします。
初めてコメント致します。私は横浜市在住の岡田順一と申します。父親はビルマで船舶工兵隊に所属して4年半を戦いました。
この度の問い合わせの目的は父の戦友が埋葬されていそうな岡山県のパコダを探してできれば戦友が眠るパコダに一緒に納骨したいと思っています。
私の父が生前に「俺が亡くなったら岡山県に戦友達が入っているパコダがあるから分骨して入れてくれ」と私と約束をかわしました。亡くなってから父親の軍歴が下記のように解りました。読めない文字もありますが、何方か父親の戦友が埋葬されていそうなパコダの心当たりがないでしょうか。教えて頂ければと願っています。生前に父が「俺の名前も岡山県のそのパコダに赤い文字で書かれてある」と言っていたのです。どうか宜しくお願いします。
下記に父親の軍歴
・昭和18年1月6日臨時召集により工兵第6聯隊(連隊)補充隊第一中隊に應召(おうしょう)入隊(船舶工兵第?一聯隊(連隊)要員)
・1月?5日船舶工兵隊第?一聯隊(連隊)に轉属(転属)
・?月?日屯営出発
・同月26日門司出発
・同月31日高雄上陸
・同日第一中隊編入
・昭和18年2月6日船作命甲第6號(号)により南方軍総司令官の指揮下に編入
・同月23日高雄港出発
・同月28日昭南(シンガポール)港上陸
・3月6日昭南(シンガポール)港出発
・同月17日緬旬(ビルマ)蘭貢(ラングーン)港上陸
・自3月18日至5月10日第31 號(号)作戦に参加
・自5月11日至6月4日「タウニガップ」(タウンジー又はタウングー)附近の防衛?に輸送作業に従事
・6月5日より8月14日迄緬旬(ビルマ)防衛?次期作戦準備に従事
・8月15日より9月10日迄第二次緬旬(ビルマ)防衛に従事
・9月11日より昭和19年7月10日迄「ウ」号作戦に参加
・7月11日より10月28日迄 盤作戦(前?期)に参加
・10月29日より昭和20年1月20日迄 完作戦?に盤決戦に参加
・1月21日より4月12日迄「イラワヂ」河畔会戦?に「メークテラ」附近会戦に参加
・4月13日より6月17日迄「克」作戦に参加
・6月17日原所属復帰
・6月1日命上等兵(?)
・6月17日より8月14日迄「モールメン」水域船舶作戦に参加
・9月7日「トクー」第118兵?病院に入院(戦病)
・9月9日「ウエガレー」第106兵?病院に於て癒
・9月29日「トクー」第118兵?病院に於て退院
・9月30日原隊復帰
・昭和22年6月23日宇品港(広島?)上陸同月24日復員
以上が父の軍歴です。
宜しくお願い致します。
Author
岡田順一様
戦友会データベースについてのお問い合わせをいただき、ありがとうございました。
返信が遅くなり、失礼いたしました。
お父様がビルマで船舶工兵隊に所属されていたということは、
所属部隊は船舶工兵第11連隊、戦友会は「暁士会」と思われます。
この暁士会の戦友会誌や部隊史があれば手掛かりがつかめるかもしれませんが、
下記ページに記載の資料館等のどこにも、残念ながら暁士会関係の資料は
所蔵されていないようです。
https://www.military-culture.jp/inquiry/
また、インターネットで「船舶工兵第11連隊」や「暁士会」で検索しても、
それらしい情報は見つかりませんでした。
以上のことから、お役に立てなくて恐縮ですが、これ以上の調査は困難と思われます。
ご了解のほど、どうぞよろしくお願いいたします。
吉田純 様
先日、父岡田春好の件でお世話になりました息子の順一です。お忙しい中を調査頂き有難う御座いました。
今はコロナで動きが取れませがコロナが終息しましたら頂いた資料も参考にして私なりに探してみたいと思います。
大変御足労頂き感謝しています。
コロナは長く続くようです。くれぐれも気を付けてご自愛ください。
突然のメール失礼いたします。私の祖父も岡田様のお父さまと同じくモールメン水域船舶作戦に参加しており、昭和22年6/23日に宇品(広島)上陸6/24復員となっておりました。
お父さまも恐らく船舶工兵11連隊所属だと思われます。
Author
岡田順一様
リプライありがとうございました。
(メールではすでにお送りしましたが) 1点補足です。
奈良県立図書情報館には、『我らは船舶工兵第十一聯隊 : 戦友の資料とビルマ・台湾の慰霊巡拝紀行文』
という資料が所蔵されています。
https://opacsvr01.library.pref.nara.jp/opac/volume/285496?current=2&q=%E8%88%B9%E8%88%B6%E5%B7%A5%E5%85%B5&total=19&trans_url=%2Fopac%2Fsearch%3Fcount%3D50%26defaultpage%3D1%26defaulttarget%3Dlocal%26order%3Dyear_d%26q%3D%25E8%2588%25B9%25E8%2588%25B6%25E5%25B7%25A5%25E5%2585%25B5
もしかしたら、この資料を閲覧されれば、なんらかの手掛かりが得られるかもしれません。
ご参考になれば幸いです。
コロナ終息と調査のご進展をお祈りいたします。
初めてコメント致します。土居成年(まさとし)と申します。アドバイス頂きたく書き込ませて頂きました。
大戦中私の祖父治重がフィリピンで亡くなっていますが、私の父は祖父に関して多くを語る事なく14年前に他界しました。5年程前から祖父の足跡を明らかにし、供養してあげたい、また、それを娘や甥・姪に語り継ぎたいという気持ちに私はかられるようになりまして、少しずつですが調査しています。以下にこれまでにわかりました事の概略を記しますので、ここから先の調査の仕方に関してアドバイスを頂戴したくお願い申し上げます。
まず祖父の出身地は高知県現高知市です。大正14年1月10日徴兵により歩兵第44連隊に入隊しています。そこで軽機関銃射手として訓練を受け、昭和2年12月1日に予備役に編入されています。兵籍に記されている最後の点呼は昭和17年です。その最後の点呼から先は何も記されておりません。
しかし、戸籍によりますと、祖父治重は昭和20年7月12日にフィリピン セブ島 ツブラン川上流で亡くなった、と第一復員省から報告があった、とあります。つまり、最後の点呼を受けた昭和17年から亡くなった昭和20年までの間に祖父はフィリピンに渡った訳なのですが、軍籍にはその記載がありません、また念の為に厚労省にも問い合わせたのですが、海軍の記録にもありませんでした。
となると民間人の身分でフィリピンに渡ったという事になるのでしょうか? しかし死亡の連絡は第一復員省から…、という事はやはり陸軍.? -ここから先にはまったく進めておりません。ご多忙中恐れ入りますが、これから先の調査の仕方に関して、何かアドバイスを頂く事ができましたら幸いです。 土居
Author
土居成年様
お問い合わせありがとうございました。多くのスパムコメントに紛れていたため、気づいてお返事するのが大変遅くなり、失礼いたしました。
おたずねの件ですが、軍歴はその後の軍人恩給の受給権に関わるため、おじい様が戦後に軍人恩給を受給していたかどうかを問わず、公的に認められた軍隊の在籍期間の記載が証明書から省略されることは考えにくいため、推測されているように、民間人として何らかの理由で外地に移動していたため、何らかの理由で現地での死亡確認が公的な記録に記載されることになった、ということかと思います。
もし軍人として帰国されたのであれば復員の記録が事後的にであれ作成されるはずなので、死亡時に軍人であった可能性は低く、第一復員省の記録、ということは陸軍関係者と何らかの形で接点があったとは考えられますが(亡くなられた現場に軍医が居合わせた、など)、昭和20年7月のフィリピンは既に陸軍としては組織的な戦闘はしていない時期にあたるはずなので、ゲリラ戦は各所で散発的に続いていたかと思いますが、陸軍と行動を共にした、とまで言える時期かどうかは何とも言えません(一般的にはおそらく軍民帯同の形が取れない戦況ではなかったかと思われます)。
そのため、探し方も部隊史や戦友会の会誌などから探せば見つかる、というものでもないと思われますので、具体的な情報である「昭和20年7月12日にフィリピン セブ島 ツブラン川上流」の状況を示す文献や関係者を探すよりほかないように思います。
なお、直接の参考になるかどうかはわかりませんが、厚労省のサイトで当時の戦地別、時期別の陸海軍それぞれの戦没者の状況を戦後に聞き取った調査記録を公開しています。
(厚生労働省「海外での戦没者の死亡状況について、帰還した元上官らから聴き取りした資料について 」https://www.mhlw.go.jp/bunya/engo/shiryou/ )
「セブ島」と言っても決して小さな島ではないので、また、軍人の戦没者の記録を探すことが調査目的にはそぐわないかもしれないのですが、当時の現地の様子を知る上では一つの記録資料ではあるので、参考の参考くらいにしかならないと思いますがお伝えしておきます。
以上、多少なりともご参考になれば幸いです。
吉田純様
土居でございます。この度はご丁寧なアドバイス頂きありがとうございました。
実は私の方も投稿させて頂いてから1カ月程はよく覗かせて頂いておりましたが、動きがないことからこのサイトのこのページは何等かの事由で活動停止中であると決めつけて、それ以降は覗くことも致しておらず、ご親切なアドバイスに対してのお礼がここまで遅れてしまいました。大変失礼致しました。
祖父治重に関しては、本当に僅かしか父から聞いておりません。勿論私は顔も見たことがないのですが、陸軍の軍籍の写しを見た時に、初めて自分の心の中で実際に存在した祖父として認識できたことを覚えております。それ故でしょうか、軍籍の最後に記されてあった予備役編入から先の足跡が無いこと、しかし戸籍には確かに~フィリピン セブ島 ツブラン川上流で死亡~と書かれてあること、これら二つの事象の間の祖父の空白期の足跡を埋め、祖父の存在を認識することが自分がすべきことである、と勘違いをしていた気も致します。そのような記録上の空白期を埋めることは、決して同島に今も眠る祖父が望むところではないのでは、と最近思うようになってまいりました。もう調査を開始してから約6年になります。足跡へのこだわりは時間とのバランスで考えようと思うようにもなりました。何等かの理由で民間人の立場でフィリピンに渡った、そして不幸にもそこで一生を終える事になったと、これから割り切ろうと思います。
最近読んだ記録によれば、アメリカ軍はセブ島の東側海岸中ほどに上陸し、日本軍は島の中ほどから北へ北へと追いやらたそうですが、その流れには民間人も交じっていたそうです。そしてその逃避方向の北方に
ツブランという地名があります。あくまで可能性ですが、その流れの中に祖父がいた気がします。
重ねましてアドバイスに対して心から御礼申し上げます。
今後共宜しくお願い申し上げます。
土居
初めて投稿させて頂きます。私の父は昭和19年9月1日愛媛県壬生川市から臨時召集のため「歩兵第112連隊
補充隊」れましたに応召され同日第1中隊に編入されました。同年9月16日「丸亀出発」同17日「博多港出発」同9月25日「鮮満国境通過」歩兵第12連隊に転属で満州に向かいました。昭和20年3月10日歩兵第265連隊に編入され、昭和21年1月5日満州液河病院で戦病死しました。父は 長野 貞義 明治43年3月15日生です。
この中で9月16日「丸亀出発」同月17日「博多港出発」と履歴書にあるのですが、丸亀から博多港までどのような経路で向かったのか情報がありましたらお教え頂ければと思い投稿させて頂きました。よろしくお願いいたします。
私の祖父は愛媛出身(ですが、北京や満州と行ったり来たりの生活を送っていました)で、19歳の頃に志願して北支派遣されましたが、
当時の愛媛県内の状況を祖母(祖父の妻で同じく愛媛人)から少し耳にしたことがありますので、共有します。
東予エリアに本籍地のある人は、徴兵されると、まずは丸亀の陸軍の基地へ集められ、出征先へ送られたそうです。
(ちなみに、中予エリアに本籍地のある人は、松山に招集なんだそうです)
その後は、船で博多へ向かい、博多港から中国や朝鮮へ渡ったのだと思われます。
私の祖父一家は明治〜昭和期にたびたび中国大陸へ渡っていましたが、“四国からの直行便”のような移動手段が無く、必ず四国エリアから北九州エリアへ船で渡って、乗り継ぎをしていました。
お父様の出征の時の船は、民間船よりも、軍艦の可能性が高そうですね。
子供の頃、1942年から1943年まで包頭地域に駐屯し、1944年に包頭から師団とともに河南省に来て、洛陽襲撃で亡くなった曽祖父について祖母が話すのを聞きました曽祖父の軍隊だけが呼ばれます(あ部隊)このユニットを知りたいです
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お問い合わせありがとうございました。
残念ながら、お知らせいただいた情報だけでは、これ以上の軍歴の手がかりは得られそうにありません。
(すでにご覧いただいているかとは思いますが)「戦友会や軍歴に関する情報の調べ方」を改めてよくご確認いただければ幸いです。
https://www.military-culture.jp/inquiry/